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山口地方裁判所 平成5年(ワ)231号 判決

原告

甲野花子

右法定代理人親権者父

甲野太郎

同母

甲野春子

右訴訟代理人弁護士

秋山正行

被告

日本赤十字社

右代表者社長

藤森昭一

右訴訟代理人弁護士

鶴田哲朗

主文

一  被告は、原告に対し、金一五一〇万三一一〇円及びこれに対する平成六年一月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その三を原告の、その余を被告の、各負担とする。

四  この判決は、原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  当事者の申立て

(原告)

一  被告は、原告に対し、金三七七一万七七七七円及びこれに対する平成六年一月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  仮執行宣言

(被告)

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

三  敗訴の場合、担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二  事案の概要及び争点

一  概要

本件は、原告が、被告の開設している綜合病院山口赤十字病院(以下、「被告病院」という。)の医師らの過失によって、いわゆるMRSAに感染し、損害を被ったとして、被告に対し、診療契約の債務不履行責任に基づき、その損害金とする三七七一万七七七七円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である平成六年一月一一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求めた事案である。

二  争いのない事実及び証拠上明らかな事実(証拠が掲記されていないものは、前者である。)

1(一)  原告は、平成四年四月一五日午後六時四三分、父甲野太郎、母甲野春子間の双胎の第一子(女児)として、島根県鹿足郡津和野町所在の津和野共存病院において出生した。

(二)  被告は、山口県山口市において、被告病院を開設している。

2  原告は、出生体重二三七八グラム、アプガースコア一分後一点、五分後三点という重症新生児仮死の状態にあり、出生直後、自発呼吸が一時停止したことから、右出生日当日、被告病院の極小未熟児や異常のある新生児を収容する集中治療施設(以下「NICU」という。)に入院し、ここに、原告と被告との間において診療契約が締結された(原告の右症状につき、乙二、証人乙山一郎(ただし、後記第三、二2(三)に掲記する採用しえない部分を除く。以下も同じ。)及び弁論の全趣旨。)。

3  被告病院における診療経過(平成四年四月一五日から同年五月六日まで。以下、平成四年を略す。)(乙一ないし三、一八の一ないし五、三二、証人乙山一郎及び同村田道子並びに弁論の全趣旨。)

(一) 四月一五日午後一〇時四〇分ころ、原告は、津和野共存病院から被告病院へ搬送された。初診時の症状は、四肢緊張がやや低下し、活気がなく、呼吸促迫で、全身、特に背部に浮腫があり、チアノーゼはないものの、酸素投与を止めると皮膚色が赤黒くなる状態であった。また、大泉門は平坦、口腔内、胸腹部には著変を認めなかった(原告が被告病院へ搬送された日が四月一五日であることは、前記2のとおり当事者間に争いがない。)。

被告病院では、乙山一郎医師(以下「乙山医師」という。)が、原告の主治医となり、診断した結果、低出生体重児(LBWI)及び重症仮死であった(乙山医師が原告の主治医になったことは、当事者間に争いがない。)。そこで、乙山医師は、原告の左足内顆部静脈より、一時間当たり、一〇パーセントブドウ糖液4.7ミリリットルと一〇倍イノバン0.3ミリリットルの点滴を行った。この際、点滴針は、ディスポーザブル(使い捨て)のジェルコ針を使用した。

(二) 四月一六日

原告は、体重が二三六八グラムで、無呼吸発作一回、呼吸促迫あり、陥没呼吸はなく、浮腫はあった。体温は、摂氏37.5度から同三八度(以下、体温の場合は、摂氏を略す。)で、排尿があり、ときどき啼泣した。

輸液として、日赤アルブミン一二ミリリットルを一時間で点滴静注し、また、ラシックス三ミリグラムを静注した。

午後五時ころ、点滴部位が発赤腫脹したので抜去して左手にやりかえた。ルーチン検査として咽頭粘液検査実施(後日、陰性の報告があった。)。

(三) 四月一七日

原告は、体重が二二三六グラムで、呼吸促迫がなくなり、午前八時ころ、酸素マスク投与を中止した。しかし、浮腫は、特に背部、下肢にあり、腹部はやや膨満しており、排気管挿入したところ、多量の排気があり、腹満マイナスとなった。

午後三時一五分ころ、点滴部位が腫脹気味であり、点滴を刺し換えた。

(四) 四月一八日

原告は、体重が二一〇六グラムで、浮腫は、背部、下腿に残ってはいるが、徐々に軽減し、皮膚に黄染が出現した。大泣きをし、声にもはりがあった。そこで、午前一〇時ころより、経管栄養(母乳、一回五ミリリットル、一日八回)を開始した。点滴部に腫脹はなかった。

(五) 四月一九日

原告は、体重が二〇九八グラムで、浮腫は、下肢に少し残っている程度になった。総ビリルビン値12.1mg/dl、アンバウンド・ビリルビン値0.61μg/dl(以下、それぞれ単位を略す。)で、高ビリルビン血症と診断され、光線療法を開始した。午前一〇時からは経管栄養を一回一〇ミリリットルに増量した。

午後三時ころ、点滴部位がやや発赤かと思われる状態となったので、同部位よりはイノバンのみとし、別に臍カテーテルを挿入し、主液の一〇パーセントブドウ糖の点滴静注を行った。

(六) 四月二〇日

原告は、体重が二〇八二グラムで、浮腫は、下腿に少し残り、総ビリルビン値10.8、アンバウンド・ビリルビン値0.52で、体動があり、ごそごそしていた。

経管栄養を一回一五ミリリットルに増量した。

午前四時ころ、イノバンの点滴部位に腫脹が見られたので、抜去し、臍カテーテルにつないだ。

(七) 四月二一日

原告は、体重が二〇八四グラムで、浮腫がなくなり、総ビリルビン値9.7、アンバウンド・ビリルビン値0.35で、軽度の腹満があった。午前一〇時より一回二〇ミリリットルの経口哺乳を開始し、総哺乳量は、母乳一四五ミリリットルであった。

(八) 四月二二日

原告は、体重が二〇八〇グラムで、総ビリルビン値9.4、アンバウンド・ビリルビン値0.33、CRP0.1mg/dl(以下、単位を略す。)で、哺乳良好、胸部、腹部に異常はなかった。

ルーチン検査として咽頭粘液検査を実施し(四月二四日、MRSA多数の報告があった。)、哺乳量は、母乳一六〇ミリリットルであった。

(九) 四月二三日

原告は、体重が二一〇六グラムで、総ビリルビン値9.2、アンバウンド・ビリルビン値0.27、CRP0.0であり、哺乳も良好で、一回三〇ミリリットルに上がり、胸部、腹部に異常はなかった。午前一〇時二五分、光線療法も止めた。哺乳量は、母乳二五ミリリットル、ミルク二〇〇ミリリットルであった。

(一〇) 四月二四日

原告は、体重が二一五四グラムで、体温37.1度、総ビリルビン値9.1、アンバウンド・ビリルビン値0.24、CRP0.6であった。午後七時ころ、臍カテーテルを抜去し、点滴は末梢へ刺し換えた。

哺乳量は、母乳一五〇ミリリットル、ミルク九〇ミリリットルであった。

(一一) 四月二五日

原告は、体重が二一〇九グラムで、哺乳不良だが、胸部、腹部には異常はなかった。

哺乳量は、前日と変わらなかった。

(一二) 四月二六日

原告は、体重が二一二四グラムであった。

午後一時ころ、点滴刺入部に腫脹が認められたので、点滴を刺し換えた。

哺乳量は、母乳二一〇ミリリットル、ミルク六〇ミリリットルであった。

(一三) 四月二七日

原告は、体重が二一六五グラムで、哺乳状況は上向き、胸部、腹部に異常はなかった。

午前四時ころ、点滴部位に軽度の発赤があった、

哺乳量は、母乳七〇ミリリットル、ミルク一九五ミリリットルであった。

(一四) 四月二八日

原告は、体重が二一八九グラムで、哺乳不良であるが、胸部、腹部に異常はなかった。

午前四時ころ、点滴刺入部位に発赤がややあり、泣き声が弱々しく、手足先が冷たいという状況となり、午前七時には、点滴刺入部位とは別のところの左足背に発赤が見られ、化膿疹が一個あったので、イソジン消毒を実施した。午後二時ころ、点滴漏れがあり、抜去し、点滴を止めた。

ルーチン検査として咽頭粘液検査を実施した(五月一日、グラム陽性球菌が検出されたが、MRSAは陰性であった。)。

哺乳量は、母乳二四〇ミリリットル、ミルク三五ミリリットルであった。

(一五) 四月二九日

原告は、体重が二一八〇グラムで、哺乳状況は良好となった。

哺乳量は、母乳一二〇ミリリットル、ミルク一六〇ミリリットルであった。

(一六) 四月三〇日

原告は、体重が二一八〇グラムで、哺乳状況は時間がかかるがどうにか飲めるというもので、胸部、腹部に異常はなかった。しかし、モニター上異常があり、心電図検査を実施したところ、心室性期外収縮が認められた。

哺乳量は、母乳二七〇ミリリットル、ミルク一〇ミリリットルであった。

(一七) 五月一日

原告は、体重が二二一五グラムで、体温37.8度、白血球数一四六〇〇/μl(以下、単位を略す。)、CRP2.1であったが、哺乳状況は良好であった。

哺乳量は、母乳三五ミリリットル、ミルク二四五ミリリットルであった。

(一八) 五月二日

原告は、体重が二二六五グラムで、左足背、下腿に浮腫があり、午後一時の体温は最高で38.8度、CRP6.5で、口周囲、爪床に地図状のチアノーゼがあったが、哺乳状況は上向いた。

乙山医師は、感染症を疑い、血液培養を行うとともに、午後六時ころ、左足背の化膿疹より排膿して、膿の細菌培養検査を依頼した。

また、午前一一時ころより点滴を開始し、ビクシリン(ABPC)七〇ミリグラム、クラフォラン七〇ミリグラムを一日三回投与した。

哺乳量は、母乳一七五ミリリットル、ミルク一〇五ミリリットルであった。

(一九) 五月三日

原告は、体重が二二八六グラムで、体温39.4度、CRP10.5、白血球数一二八〇〇、左足背浮腫がわずかにあり、左足背の化膿疹もあり、口周囲、爪床及び全身に地図状のチアノーゼがあったが、哺乳は良好であった。

ところで、乙山医師は、前日の血液培養によりグラム陽性球菌多数と判明したため、敗血症と診断し、ビクシリン及びクラフォランを各一五〇ミリグラムに増量し、免疫グロブリン製剤ベニロン五〇〇ミリグラムを一時間かけて点滴静注した。

哺乳量は、ミルク二八〇ミリリットルであった。

(二〇) 五月四日

原告は、体重が二三二一グラムで、体温38.8度、CRP8.7、白血球数一七九〇〇で、チアノーゼは変わらず、午後三時ころより腹満があったが、哺乳は良好であり、ビクシリン及びクラフォラン各一五〇ミリグラムを一日三回投与した。

哺乳量は、ミルク二四五ミリリットルであった。

(二一) 五月五日

原告は、体重が二三五一グラムで、体温38.6度、CRP4.1、白血球一六五〇〇、チアノーゼは地図状で、腹満があり、深夜から午前中にかけて欠食し、午後一時から哺乳が開始されたが良好であり、昨日同様の薬品の投与を行った。

哺乳量は、ミルク一四〇ミリリットルであった。

(二二) 五月六日

原告は、体重が二四一六グラムで、体温38.2度、CRP4.8、白血球数一五五〇〇、チアノーゼは地図状で、腹満はあるが、哺乳は良好であった。

被告病院看護婦は、午前三時ころ、原告の右大腿部腫脹を発見したところ、その後、右腫脹は改善せず、触ると原告が大泣きするという状態となった。そこで、原告の右股関節のレントゲン写真撮影をするとともに、午後四時ころ、右股関節穿刺を行い排膿し、ビクシリン一五〇ミリグラムを関節内に注入した。

また、五月二日の血液培養及び膿の各細菌培養検査の結果、MRSA陽性と判明したため、ホスミシン一五〇ミリグラム、ハベカシン七ミリグラムを点滴した。

被告病院の整形外科の診断結果では、原告は、右化膿性股関節炎に罹患しているということであり、緊急手術を要するため、福岡市立こども病院に転院させることとした。

4  福岡市立こども病院では、直ちに、緊急手術が行われたが、原告の右股関節内には、膿が多量に認められ、大腿骨の骨頭、頸部は壊死し、すべて消失しており、また、関節外でも、大腿骨の幹部の骨膜下に膿が貯留して、骨髄炎となっていた。

三  争点

1  本件の争点は、

① 原告がMRSAに感染したことにつき、被告病院の医師らに過失があったか否か、

② 原告がMRSAに感染したことにつき、被告病院の医師らに、そのことを予見し、かつ、適切な治療をなすべきであるのに、これらを怠ったという過失があったか否か、

③ 右①又は②が認められる場合、これと原告の損害との間における相当因果関係の有無ないしその損害額いかん

というところにある。

2  争点に対する当事者の主張

(争点①について)

(一) 原告

(1) 原告が、MRSAに感染した原因は、被告病院の医師あるいは看護婦らが、原告の左足背から点滴剤を注入する際、①手指の消毒の不完全、②点滴セット三方活栓の消毒の不十分、③原告の点滴刺入部の消毒の不十分、④点滴後における点滴部位の消毒の不十分等必要な措置を怠った過失により、左足背のDIV針にMRSAを付着させたことにある。

(2) MRSAの深部感染を引き起こしやすい宿主側要因は、未熟児、新生児、IVH(静脈内高カロリー輸液)施行の患者等の易感染性患者で、MRSA対策を重点的に行うべきリスクグループである。特に、IVH施行中の患者は、カテーテル挿入部から感染が起こりやすい。

(3) 被告は、MRSA感染予防の対策として、MRSA院内感染予防マニュアルを作成して予防に努めていたとか、各人が手洗いの実行をしたと主張するが、被告病院の医師や看護婦らにおいて、具体的に各人が児に接触するたびにその都度手洗いを行ったという立証はなく、かえって、医師・看護婦らはNICU室内でマスクを着用せず、医師は帽子を着用していなかったという状況にあった。また、平成四年四月当時、被告病院のMRSA感染予防は確立しておらず、医療器具の消毒、院内の清掃・消毒は十分になされていなかった。

(二) 被告

(1) MRSAは、常在菌で、一般にも保菌者は多いところ、NICU内での感染には、最大限の注意を払っても、抵抗力の弱い未熟児についてこれを完全になくすことは不可能で、数パーセントの感染は避けられないし、また、内因性感染の可能性も否定することができない。

(2) 被告病院NICUでは、MRSA対策として、次のような対策を実行している。

① 毎週一回、患者の咽頭培養を行い、MRSAのチェックをしている。

② MRSA検出児については、コット、クベースにその旨表示している。

③ MRSA検出児の物品は、専用のものを使用し、他と区別している。器械などについては、ガス消毒、薬液消毒にて十分に消毒して使用している。また、廃棄できるものについては廃棄している。

④ 医療スタッフは、パートを着用して処置などを行い、直接衣料などに接触しないように心がけている。

⑤ MRSA検出児の隔離については、ワンフロアー(一五床)で大変に困難なので、検出児を一か所に集め、コット、クベースの間隔を広くとっている。

⑥ 医療スタッフ等のNICU入室については、イソジンガーグルでうがいを行い、イソジンクリームを鼻腔に塗布している。

⑦ 手洗いについては、イソジン液、ウエルパスで手指の消毒を行い、児に接触するたびにその都度手洗いしている。特に、重症児、感染症のある児のそばには常に消毒液を準備し、頻回に手指の消毒を行っている。

(3) 本件は、被告病院のMRSA院内感染防止の取り組みの中で、MRSA院内感染予防マニュアル作成の直前の時期に発生したものであるが、当時、前記(2)に掲記したようなMRSA感染予防対策は既に実行されていたものである。

(争点②について)

(一) 原告

乙山医師には、原告の治療に当たり、NICUにおける小児科医師として、以下の注意義務違反があった。

(1) CRP検査の欠如

CRP(C反応性蛋白)は、炎症や組織破壊病変が発生すると、一五時間から二四時間で患者の血清中に急激に増加し、病変の回復とともに迅速に正常に復する代表的な急性相反物質の一つとされており、炎症や組織破壊病変を伴う病態の活動性を判断するための極めて有用な指標となるものである。

ところで、未熟児のMRSA敗血症において、CRPは通常0.4以上を陽性としており、原告のように仮死状態で出生した未熟児においては、CRP産生能が弱いため、特に厳重に考え、0.1以下まで測定している病院もあるところ、原告のCRPは、四月二二日が0.1であったものが、同月二四日には0.6という正常値とはいえない数値にまで上昇しているから、乙山医師には、NICUにおける小児科医師として、右二四日の時点で、適切な治療を開始すべき注意義務があった。

特に、CRPは、早ければ数分から一〇分くらいで結果が出る比較的簡単な検査であるため、乙山医師には、少なくとも、その翌日には、再検査をして、原告のCRP数値が上昇してないか否かを確認する義務がある。

また、乙山医師は、四月二五日から同月三〇日までの六日間の経過の中で、原告の点滴刺入部が発赤したり腫脹したりして化膿疹があったのを認めているのであるから、担当医の最低の義務としてCRP検査を実施すべきである。

(2) 四月二八日における膿及び血液の各検査の欠如

四月二八日には、原告の以前の点滴刺入部位の左足背発赤と化膿疹が一か所できていたところ、原告は、既に、同月二二日の咽頭粘液検査により、同月二四日ころ、MRSA多数と判明していたのであるから、NICUの小児科医師である乙山医師には、この両者を関連付けて、血液培養及び膿の細菌培養検査を行う義務があった。

なお、乙山医師は、四月二八日に咽頭粘液検査を行っているので、恐らくその翌日には、顕微鏡結果として、グラム陽性球菌が検出されたとの報告を受け取っているはずであるにもかかわらず、ここでも何らの治療行為を開始しなかった。

(3) 五月一日における検査、治療の欠如

五月一日は、原告のCRPが2.1と明らかな異常値を示しているため、NICUの通常の医師ならば、少なくともこの時点で、血液培養、咽頭、鼻腔、便のMRSA検査を実施し、CRP値を正常に戻すため適切な治療を開始しているが、乙山医師は何もしなかったのであるから、この点について注意義務違反がある。

(4) 五月二日の治療の欠如

この日、原告には、午前の段階で、下腿浮腫があって、圧痕が残る状況下にあり、しかも、午後六時ころには、左足背浮腫と化膿疹が認められ、明らかにMRSAの局所所見が得られたのであるから、NICUの小児科医師である乙山医師としては、この時点で直ちに、MRSAに唯一効果がある抗生物質バンコマイシンを選択する義務があり、仮に、バイコマイシンを選択しなかったとしても、この時点で、ゲンタマイシン等MRSAを予測した抗生物質を投与すべきであった。それにもかかわらず、乙山医師は、ビクシリン、クラフォランを投与したのみで、MRSA感染症についての治療を行っていない。

(5) 五月三日の治療の欠如

この日、被告病院検査室の技師が、血液培養の結果、グラム陽性球菌が出た旨、乙山医師に電話で報告していること、原告のCRPが10.5で、右足背以前の点滴刺入部が化膿していたことによれば、原告がMRSAを発症していることは明らかであるから、NICUの小児科医師である乙山医師としては、直ちに、MRSAに唯一確実な効果のあるバンコマイシンを投与すべき義務があった。

(6) 五月四日から六日までの治療の欠如

乙山医師は、五月三日、ビクシリン、クラフォランを各一五〇ミリリットルに増加したが、原告の症状は何ら改善されるどころか悪化の一途をたどったのであるから、抗生剤の種類を変えるなど、治療上何らかの工夫があってしかるべきところ、ここでも、MRSAを念頭に置いた治療を行っていない。

(二) 被告

(1) CRP検査の欠如について

CRPは、その試薬と基準により正常値の設定はまちまちであり、被告病院におけるCRP検査法では、0.6の値は正常値である。そして、CRP0.6であれば、治療を開始すべき必要はなく、また、感染症を疑わせる症状が顕著になるという事情がないのであれば、その翌日に再検査する義務はない。

なお、原告には、CRPが0.6であった四月二四日も、翌二五日も、点滴刺入部の発赤、腫脹あるいは化膿疹は見られていない。もっとも、点滴刺入部の腫脹は四月二六日午後一時ころ、軽度の発赤は同月二七日午後四時ころ、化膿疹は同月二八日午前七時ころから、それぞれ認められているが、点滴をしていれば、その刺入部が腫脹、発赤することは、新生児治療の日常しばしば見られることで、そのこと自体でCRPが上昇することは通常考えられない。

また、本件で見られた直径一ミリメートル程度の化膿疹一個で、CRPが上昇することも稀であり、このような症状に対してCRPを検査する義務はない。したがって、四月二五日から同月三〇日までの六日間の経過の中で、CRPを再検査するのが担当医の最低の義務であるとする原告の主張は失当である。

(2) 四月二八日における膿及び血液の各検査の欠如について

足背の発赤や化膿疹があっても、発熱などの全身症状がなければ、血液培養が必要であるという判断にはならないし、四月二八日の化膿疹は、小さいもので、通常のイソジン消毒をすることにより、五月二日に発見されるまでは消失していたのであるから、これを、四月二二日の咽頭粘膜の培養検査の結果と関連付けて、血液培養及び膿の各細菌検査を行うべきであったとする原告の主張は失当である。

また、原告は、乙山医師が、四月二八日の咽頭粘液検査の結果について、その翌日にはグラム陽性球菌が検出されたとの報告を受け取っているはずであると主張するが。乙山医師は、翌二九日には、顕微鏡結果として報告を受け取っていないし、その結果も、MRSAは陰性であり、治療開始の必要性はない。

(3) 五月一日における検査、治療の欠如について

この日、CRPが2.1と弱陽性を示したが、原告は、哺乳力が上向き、発熱もなく、一般状態が良くなってきていたので、患者にとって痛みや侵襲をともなう血液培養などの検査はせずに、経過を観察して翌日の検査結果で判断しようとしたものである。これは担当医師の裁量の範囲内であり、注意義務違反には当たらない。

(4) 五月二日の治療の欠如について

下腿、足背の浮腫や一個の化膿疹では、CRPは、6.5までは上昇しない。この時点では、発熱やかかるCRPの上昇を伴うような感染部位は不明であった。新生児の感染症はその種類が多く、感染部位や起炎菌が不明のときには、一般的に最も有効とされ、幅広い抗菌スペクトルと強い殺菌力をもつビクシリンとクラフォランを使用するのは、新生児に対する治療の基本的な考え方であり、本件においても合理的かつ妥当な判断であった。

また、下腿浮腫、圧痕、足背浮腫、化膿疹を、「明らかにMRSA感染症の局所所見である。」と断定している原告の主張には、根拠は全く見いだしがたく、これらにつき、MRSAの局所所見として特異なものは何もない。

なお、バンコマイシンは、抗菌スペクトルが狭く、グラム陰性菌には抗菌力を持たず、黄色ブドウ球菌についても、感受性株に対しては、他の黄色ブドウ球菌感染症の治療剤に比べて抗菌力が劣るのであるから、バンコマイシンを第一選択とする原告の主張は合理的なものとはいえない。

(5) 五月三日の治療の欠如について

この日、乙山医師は、前日の血液培養の中間報告として、グラム陽性球菌が出ている旨の報告を受けたところ、この時点では、咽頭からMRSAが消えていることにより、起炎菌として他のグラム陽性球菌、例えば、四月二八日の咽頭粘液検査において陽性であった表皮ブドウ球菌やMRSA以外の黄色ブドウ球菌を考えるのが一般的である。

また、臨床経過による現場の判断としては、この時点でMRSA感染症を起こしている証拠は何一つなく、また、それを疑う状況でもなかったのであるから、MRSA発症が明らかであるという原告の主張も失当である。

(6) 五月四日から六日までの治療の欠如について

ビクシリンとクラフォランを増量した後は、CRPは、日毎に下降し、発熱も下がる傾向にあったので、この時点では臨床的には改善しており、抗生剤が効果的であると判断するのは当然で、抗生剤の種類を変える必要はない。

また、血液培養と膿検査からMRSAが出ているとの報告を受け、直ちにMRSAに効果があるとされるハベカシンとホスミシンに抗生剤を変更しているのであるから、適切な治療がなされていたのである。

(争点③について)

(一) 原告

(1) 逸失利益

ア 原告は、その右足大腿骨骨頭及び頸部が壊死消失していることから、将来右股関節形成手術を受けたとしても、右下肢の五センチメートル以上の短縮が不可避である。

原告のかかる後遺障害は、一下肢の三大関節中の一関節の用を廃したものとして後遺障害等級第八級七号に該当し、さらに、一下肢を五センチメートル短縮したものとして、同第八級五号にも該当するものであり、その結果、両者を併せて同第六級に該当し、その労働能力喪失率は、六七パーセントである。

イ また、平成四年における女子一八歳から一九歳の年間平均賃金は、二〇二万三三〇〇円であり、〇歳のホフマン係数は16.419である。

ウ よって、これらを基に、原告の逸失利益を計算すると、二二二五万七七七七円となる。

(2,023,300×0.67×16.419

=22,257,777)

(2) 慰謝料 一二九六万円

後遺障害第六級の慰謝料としては、右額が相当である。

(3) 弁護士費用 二五〇万円

(二) 被告

争う。

第三  当裁判所の判断

一  争点①について

1  争点①については、以下に検討するとおり、被告病院の医師らに過失があったとは認め難い。

(一) 乙第六号証、第一六号証、第二五号証、第二七号証、第二九号証、証人門屋昭一郎の証言及び鑑定の結果によれば、以下の各事実が認められる。

(1) MRSAは、メシチリン耐性を有する黄色ブドウ球菌で、人の鼻腔、皮膚、腸管などに常在する細菌であり、健常人に病原性を示すことはあまりないが、感染抵抗力の低下した入院患者に対しては、特に重篤な感染症を引き起こす。黄色ブドウ球菌は、健康人の四〇から七〇パーセント、鼻腔に保菌されており、かかる鼻腔保菌者では、手によって菌が運ばれ、皮膚に検出されることが多いが、この点はMRSAも同様である。また、MRSAは、患者相互間や医療従事者との接触により伝播されることが多いが、手による直接の接触で伝播されるだけでなく、手や皮膚の触れた医療器材、寝具、トイレのドア、床への接触によっても伝播される。平成五年ころ、病院で分離されるMRSAの頻度は、入院患者からでは全黄色ブドウ球菌の五〇から七〇パーセント、外来患者からは一〇から二〇パーセントである。健常人においても数パーセントがMRSAを鼻腔等に保有している計算になる。

(2) MRSAによる院内感染は、平成二年ころから、日本の医療現場において深刻な問題となり、多くの論文や対策が発表された。厚生省も、平成三年六月二六日付けで、健康政策局指導課長名で各都道府県衛生主管部長宛に、「医療機関における院内感染の防止について」と題する通達を発し、院内感染に関する注意を喚起した。

そこで、MRSA感染の予防策が問題となるが、病院という施設は、MRSA保菌者を含む多くの患者や医療従事者が自由に出入りするところで、絶えずMRSAに汚染される危険性があり、その上、抗生物質の使用や救命のための様々な処置といったMRSA誘発の要因となる事柄が日常的に行われていることや、平成四年四月ころの医療現場の実態からは、高度の医療を実施するICUやNICUでは、例えMRSA保菌者と判明しても、緊急性から入室を拒否できないし、絶えず入院があることから、患者を収容したままでの病室の完全な清掃は困難であり、また、高価な設備を要することから予備の部屋を準備することも困難であったので、当時の一般的医療水準において、MRSA感染の医療機関内での感染を完全に予防することは不可能であり、可能な限り感染・発症を抑制するということが対策の限界であった。

(二)(1) ところで、右のとおり、医療機関内におけるMRSA感染を完全に予防することが不可能であるとしても、平成二年から平成五年当時、MRSAの院内感染が、日本の医療現場一般における問題となっていた状況にかんがみると、被告病院としては、当時の各病棟の状況に合わせて、可能な限りMRSAの感染・発症を抑えるための院内感染対策を講じるべき注意義務があり、それにもかかわらず、漫然と何らの方策も採らずにいた場合には、相応の過失が認められるべきである。

そこで、被告病院のMRSA感染の予防策について検討する。

(2) 乙第六号証、第一六、一七号証、第二一号証の一六、一七、第三五号証の三、五、第三七号証の一ないし三、第三八号証、第四一ないし第四三号証、第四五号証の一ないし三、第四六号証、証人門屋昭一郎の証言及び鑑定の結果によれば、以下の各事実が認められるのであり、この認定に反する証拠は指摘し難い。

ア 被告病院では、昭和五三年八月、院内感染防止委員会規定が作成され、その後、MRSAの問題が出てきたことから、昭和六三年九月ころ、MRSAの予防と対策についての看護基準を作成し、これが、MRSA院内感染予防マニュアルに発展した。被告病院では、平成三年から、右マニュアル作成に取り掛かり、平成四年五月二七日、同マニュアル(乙六)が完成した。右マニュアルは、前記(一)(2)で認定した平成三年六月二六日付け厚生省通達、広島赤十字病院及び高松赤十字病院のMRSA感染予防対策マニュアルを参考として作成されたもので、厚生省健康政策局指導課監修により平成六年に作成された、「院内感染対策ポケットマニュアル」に掲げられているのと同じ予防策が記載されていた。また、NICUでは、一般的な病棟での取り扱いとは別に、消毒基準を特別に作成していた。

イ 被告病院のNICUの空調システムは、独立空調となっており、外気が、プレフィルター、中間フィルター、最終フィルターによって濾過されて室内に入り、室内を通って入り口付近の排気口より再び空調機に戻るように循環させており、これにより、更に空気の清浄度が増す仕組みとなっているし、室内の圧力は常に陽圧になっていた。

ウ 右マニュアル作成後、被告病院で実施されたNICU室内のふきとり検査では、一〇か所ないし三三か所中、MRSAが検出された部位は、多くて二か所であり、半数回以上の検査では、すべて陰性という結果が出ている。NICU内の落下基準検査では、MRSAが検出されたことはない。また、手洗い用の滅菌水の細菌検査は、原告がMRSAに感染する以前から行われていたが、ずっと陰性であった。

エ MRSA感染予防教育は、看護婦、看護助手を対象として、前記マニュアルと、「消毒法と薬剤の取り扱い方」という文献を使用し、新採用時、勤務交替時にオリエンテーションやOJTその他を行っている。

オ 被告病院NICUにおけるMRSA陽性者の数は、平成四年一月二名、同年二月〇名、同年三月二名、同年四月四名、同年五月五名、同年六月〇名、同年七月二名、同年八月一名、同年九月四名、同年一〇月一名、同年一一月二名、同年一二月〇名であり、平成五年一年間のMRSA陽性者数が一四名で、平成六年が一一名となっていることと対比すると、前記マニュアル作成の前後によって、有意な変化は見られないので、同マニュア作成後、特にMRSA感染予防のために変化があったとは見られない。

(3) 右に認定したところに鑑定の結果を照らし合わせると、被告病院においては、前記(2)アないしオのとおり、院内感染マニュアルの作成、医療従事者のMRSA保菌調査、NICUの空調の独立、NICUでの消毒基準の確立、講習会(感染予防に関する職員教育)の実施、環境調査実施がなされていることにより、平成四年四月当時、組織的には標準的な感染防止対策が講じられていたとの評価をなしえると思料される。

なお、前記(2)ア、ウ及びエで認定したごとく、被告病院における院内感染マニュアルの作成、講習会(教育)の実施、環境調査実施は、原告が被告病院でMRSAに感染した後になされたものであるが、前記(2)オで認定したように、原告感染時と本件マニュアル作成後において、有意な変化は見られないし、前記(2)アで認定した事実によれば、被告病院では、昭和六三年ころから段階的に、MRSAの感染予防対策が取られているものと認められるから、それらに近接した原告の感染時においても、右予防対策が怠られていたとまでは解しえない。

(4) もっとも、原告は、個々人レベルで、MRSA感染予防対策が実行に移されていたかは、疑問であると主張するが、証人乙山一郎及び同門屋昭一郎の各証言によれば、被告病院のNICUを担当する医療従事者については、前記第二、三2(争点①について)(二)(2)に掲記したMRSA予防対策の内容がほぼ実行されていることを認めることができる。

なお、乙山医師は、その証人尋問中において、鼻腔へのイソジンクリームの塗布については証言していないが、乙第四九号証によれば、鼻腔に定着したMRSAが飛沫感染を起こす可能性は少なく、むしろキャリアが鼻に触れた手指で菌を伝播することが多いと考えられること、したがって、手洗いを徹底できれば、あえて、鼻腔の除菌は必要ないことが認められることから(原告も、手洗いの励行がどれだけされたかどうかが一番の問題であると主張している。)、この点において、乙山医師が、右イソジンクリームの鼻腔塗布を行っていなかったのではないかという疑問はあるものの、さりとて、かかる疑問があることのみで、同医師に、MRSA感染予防対策を採ることが欠けていたということはできない。

また、証人乙山一郎の証言によれば、乙山医師はNICUにおいてマスクを着用していなかったことが認められるが、乙第三九号証によれば、鼻腔培養の結果、マスクを除去したことによる感染の危険度は、手洗いが十分になされていればマスク着用時とほとんど変わらないものと推察できること、新生児病棟においてマスクを除去すると、病棟の雰囲気が良くなり、仕事も円滑に行われ、患児の情緒面の発達に良い影響を与えるなどの利点があることが認められる。したがって、乙山医師が、マスクを着用していないことには理由があり、これをもって、被告病院における個々の医療従事者が、他のマニュアルの実行(特に手洗い)をしていなかったと推認することはできない。

2  以上のとおりであり、原告がMRSAに感染したことにつき、被告病院の医師らに過失があったとは認められないので(なお、甲五四及び原告法定代理人甲野春子中、右過失の存在を肯定し得るかのごとき、五月六日の被告病院における、同法定代理人と乙山医師とのやりとりに関する部分は、その詳細がはっきりしないので、いずれも採用し難い。)、争点①に係る原告の主張は失当である。

二  争点②について

1  CRP検査の欠如及び四月二八日における膿及び血液の各検査の欠如について

前記第二、二3(一一)ないし(一四)に掲記した各事実及び鑑定の結果によれば、四月二六日から同月二八日までの間に、原告の点滴刺入部に軽度の発赤又は腫脹が現れ、同月二八日には点滴刺入部とは別の左足背部に発赤及び化膿疹が存したことが認められるが、他方、その間、原告の胸部、腹部に異常はなく、哺乳量も基本的には増量傾向にあるなど、このころの原告の臨床経過自体は順調であり、新生児感染症の兆候を表すものは、四月三〇日に、「哺乳に時間がかかる」という症状が現れるまでは、特に指摘されていないことが認められる。

そして、右各事実によれば、四月二八日までの時点において、前記のとおり、基本的に回復傾向にあった原告の皮膚表面に化膿疹が一か所現われたことをもって、主治医である乙山医師に、直ちにCRP検査を実施すべき義務が発生したとは解されないし、炎症状態が生じていない原告の膿や血液の各培養検査を実施して原因菌を発見する義務(これは、治療方針を決定するために行われるものと考えられる。)も見いだせないというべきである。

したがって、この点に係る原告の主張は失当である。

2  五月一日以降における治療の欠如について

(一)(1) 前記第二、二3(一六)及び(一七)に掲記した各事実に加えるに、甲第六二号証(ただし、後記採用しない部分を除く。)及び鑑定の結果によれば、原告は、四月三〇日に、「哺乳に時間がかかる。」という新生児細菌感染症の初発症状とみられる臨床症状が現れ、五月一日にはCRPが2.1という陽性を表す数値となったことが認められるところ、かかる結果からすれば、乙山医師には、五月一日の時点において、原告が何らかの細菌感染症に罹患している疑いを予見しえたものと認められる。

また、前記第二、二3(一八)ないし(二二)に掲記したとおり、原告のCRPは、五月二日には6.5にまで上昇し、この日からビクシリン及びクラフォランの各投与を開始したにもかかわらず、同月三日には更にこれが10.5に上昇したこと、同日、乙山医師は、血液培養の結果からグラム陽性菌が多数との報告を受けていること、以上に加えるに、鑑定の結果によれば、新生児の細菌感染症の原因菌としてはB群レンサ球菌、大腸菌をはじめとする腸内細菌群、ブドウ球菌が重要であること、グラム陽性菌中には、MRSAもその一種に含む黄色ブドウ球菌も分類されること(鑑定結果中の鑑定資料1)が認められるところ、前記第二、二3(一)及び(八)のとおり、原告には、四月二二日に咽頭からMRSAが検出されているという既往がある上、早産、低出生体重、仮死という出生状態から、その感染防御機能が低下している可能性も考えられ、しかも、ビクシリン及びクラフォランはMRSAに対しては効果がない(証人乙山一郎及び鑑定の結果)ことをも考慮すれば、乙山医師には、五月三日の時点において、原告の感染症の原因菌の一つとして、MRSAの可能性を予見できたものと認められる。

(2) これに対して、甲第六二号証(植月重介医師の意見書)中には、担当医は、「五月一日の時点で原告のMRSA感染を予見しえた。」とする部分があるが、これは、要するに、同号証中における、「最近ではMRSAの増加が大きな問題となっているなどの記述は小児科一般雑誌によく目にされるので、CRP上昇と同時にMRSA感染の可能性も予見できた。」という記載のとおり、一般論として、原因菌の一つ、すなわち選択肢の一つにMRSAが考えられるというものにすぎず、原告の具体的な症状に基づき、MRSAの兆候があることを前提にした意見ではない。現に、右意見書自身も、「ただし、実際の現場で、この時点では統計的頻度により、MRSA以外の起炎菌の可能性をより重視すべきであろう。五月三日、前日より抗生剤治療の開始にもかかわらずCRPが上昇し、血液培養の結果からグラム陽性菌が多数との報告を受けたことにより、MRSA感染の可能性が優位になって来るものと考えられる。」としているのであって、これによれば、結論的には、鑑定の結果と異なるものではない。

よって、甲第六二号証中、五月一日に、原告のMRSA感染を予見しえたとする部分は、原告の症例に照らした場合、にわかに採用できない。

(3)ア なお、被告は、前記第二、三2(争点②について)(二)(3)のごとく、五月一日には、原告の症状は、哺乳力が上向き、発熱もなく、一般状態が良くなってきたと主張するが、前記第三、二2(一)(1)のとおり、同日以降、原告のCRP値が急激に上昇し、抗生物質であるビクシリン及びクラフォランの投与にもかかわらず、右数値が上昇している状況に照らせば、原告には、この時点で何らかの感染症の存在が疑われてしかるべきであり、被告の右主張は失当である。

イ さらに、被告は、前記第二、三2(争点②について)(二)(5)のごとく、五月三日においては、この時点では咽頭からMRSAが消えていることにより、四月二八日の咽頭培養検査において陽性であった表皮ブドウ球菌やMRSA以外の黄色ブドウ球菌を考えるのが一般であると主張するが、前記第三、二2(一)(1)で認定したとおり、原告が四月二二日の咽頭培養検査でMRSA陽性を示したことは、MRSAの存在を疑わせるに足る因子の一つであると解される上、右(1)で指摘したように、五月三日の時点では、ビクシリン及びクラフォランの投与にもかかわらずCRP値が上昇していることから、起炎菌として、これらの抗生物質が効果を及ぼさない菌も疑われることを考慮すれば、乙山医師には、当時、選択肢の一つとしてMRSAの感染を疑うことは可能であった、すなわち予見できたものと認められるから、被告の右主張も失当である。

(二)  そこで、原告に対する、五月一日と三日における望ましい治療方法いかんというに、乙第二〇号証、証人乙山一郎の証言及び鑑定の結果によれば、ビクシリン及びクラフォランは、B群レンサ球菌、ブドウ球菌、大腸菌をカバーし、強い殺菌力を持つ薬剤である一方、バンコマイシンは、グラム陽性球菌以外の感染に対しては効果がないものであり、副作用として、急速な静注によるレッドマン症候群、聴力障害あるいは腎障害が見られるため、安易なバンコマイシンの多用は、バンコマイシン耐性菌を誘導しかねないことから、その投与に当たっては慎重になされるべきことが、それぞれ認められる。

右に加えるに、前記(一)(1)で認定したところ及び鑑定の結果によれば、五月一日の段階では、原告が何らかの感染症に罹患していることは予見されるものの、MRSAが起因菌の一つとまでは特定されていなかったのであるから、抗生物質の投与としては、新生児細菌感染症の原因菌として頻度の高い細菌をカバーすることのできる組み合わせが相当であり、ビクシリン及びクラフォランという組み合わせが最適であったといえるが、MRSAが起因菌の一つとして予見された五月三日の段階では、担当医としては、MRSA感染に関しての治療をなすべきであり、したがって、原告に対し、MRSAに効果のないビクシリン及びクラフォランでは足りず、バンコマイシンやハベカシンという抗MRSA薬剤を投与することが必要であったと認められる。

(三)   右に認定した原告に対する望ましい治療方針と本件における現実の治療とを対比するに、本件におけるビクシリン及びクラフォランの投与は、五月二日と一日遅く、抗MRSA薬剤の投与は、五月六日と三日遅かったことが認められ、この点において(とりわけ後者に関し)、乙山医師に注意義務違反があったものと解される。

さらに、鑑定の結果によれば、MRSA等の耐性菌の治療に当たっては、原因菌が判明するまでは経験的な治療が許されるが、耐性菌と判明した場合には、薬剤感受性検査に従って抗生物質を選択する必要があるというのが、感染症・化学療法的見地から見た一般的治療水準であることが認められる。

そうすると、担当医としては、感染症の起因菌が耐性菌であることが判明した時点で、薬剤感受性検査に従って抗生物質を選択すべき注意義務もあると解されるところ、乙第二号証、鑑定の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告には、バンコマイシンに対する感受性検査が実施され、感受性の成績が得られているのに、ハベカシンについては、これが実施されていないこと、乙山医師は、以前、ハベカシンでMRSAが治ったことがあるといういわば経験的治療に基づき、五月六日の時点で、原告に、バンコマイシンではなくハベカシンを投与したことが認められるから、この点においても、乙山医師に注意義務違反が認められる。

そして、右に検討したところに照らすと、原告に対する治療行為については、その指摘するがごとき手落ちはなく、したがって、過失も存しなかったという趣旨の証人乙山一郎の証言の一部は、採用しえないところである。

3 以上によれば、被告病院は、原告がMRSAに感染したことにつき、その担当医師であった乙山医師において、右感染を予見し、かつ、適切な治療を行うべきであるという注意義務を怠った過失が存したことにより、原告との間における診療契約上の債務不履行責任に基づき、原告に対し、その被った損害の賠償をなすべき義務を負うに至ったものというべきである。

三  争点③について

1(一)(1) 争点②で判断した乙山医師の過失と原告の症状との間の相当因果関係を検討するに、鑑定の結果によれば、鑑定人は、「本症例の臨床経過が急激であった点、骨や関節には抗生物質の移行が不良な点を考慮すると、五月三日に抗MRSA薬を開始したとしても今回問題とされる化膿性股関節炎を防止しえたかどうかは不明と言わざるを得ない。」という見解を述べていることが認められる。

(2) なお、有効な抗生物質の投与が急性骨髄膜炎の症状発生後二四時間以内に開始された場合には、手術は不要となるという趣旨の医学論文があるところ(甲三五)、甲第二二号証によれば、バンコマイシンの投与により、敗血症における消失は三〇例注二九例、骨髄炎、関節炎などの表在性二次感染の消失率は一〇〇パーセントの結果を得たという症例報告の存在が認められるが、本件全証拠によるも、原告に化膿性股関節炎が発生した時期は不明であることや、新生児は免疫学的には未成熟な状態で出生するため、感染症が急速に重篤化することも稀ではないこと(鑑定の結果中の鑑定資料1)を考慮すれば、仮に、五月三日の時点でバンコマイシンを投与することによりMRSAが消失したとしても、それによって、原告の大腿骨の骨頭、頸部壊死が生じなかったとまでは断定できない。また、甲第六三号証及び第六五号証は、バンコマイシンが、MRSAによる骨、関節感染症の治療に際し、十分な効果を期待できる有用な薬剤であることを示した論文であるが、これによっても、五月三日の時点でバンコマイシンを投与していれば、原告の股関節炎が完全に治癒したとまではやはり断定し難い。

したがって、右いずれの各甲号証も、前記(1)に掲記する鑑定の結果中の鑑定人の見解に対する反対証拠とはなり得ない。

(二) しかしながら、右鑑定人の見解は、「原告が化膿性股関節炎に罹患することを防止しえたかどうかは不明と言わざるを得ない。」とするだけで、それ以上に、バンコマイシンの投与の遅れが原告の症状に寄与しているかという意味での相当因果関係までを否定するものとは解されないこと、甲第五〇号証によれば、MRSAに限らず黄色ブドウ球菌感染症は抗菌薬を投与する時期が重要であり、ある時期を過ぎると病巣を開放するとか除去するといった外科的処置を加えない限り完治しないと認められること、経験則上、早期に治療がなされれば、それだけ早期に治癒し、かつ、症状も軽くて済むものと認められること、以上の諸点にかんがみれば、本件においても、抗MRSA薬の投与の三日間の遅れ、すなわち、乙山医師の前記過失が、前記第二、二4に掲記したごとき原告の症状の重篤性に相応の寄与をしているものと考えられる。

そして、右に判断したところに、争点②で認定したところの乙山医師の過失が発生した時点及びその内容をも合わせ考慮すると、右寄与の程度は、四割と解するのを相当と認める。

2 原告の損害額

右1で認定した寄与割合を前提に、原告の被った損害額を検討する。

(一)  逸失利益

甲第一二号証、第三八ないし第四一号証、第五三ないし第五六号証、原告法定代理人甲野春子の供述及び当裁判所の福岡市立こども病院感染センターに対する調査嘱託の結果によると(ただし、甲五四及び原告法定代理人甲野春子は、いずれもその一部。)、原告は、右化膿性股関節炎による骨頭の消失により大腿骨中枢部骨端線の障害があり、現在4.5センチメートルの脚長差があるが、将来、これは更に増加すると思料されることが認められる。そして、原告のかかる後遺障害は、一下肢の三大関節中の一関節の用を廃したものとして後遺障害等級第八級七号に該当し、さらに、一下肢を五センチメートル短縮したものとして、同第八級五号にも該当するところ、その結果、両者を併せて同第六級に該当するものと思料され、したがって、原告の労働能力喪失率は、六七パーセントであると認められる。

また、平成四年における女子一八歳から一九歳の年間平均賃金は、二〇二万三三〇〇円であり、〇歳児の場合に採用されるホフマン係数値は16.419であるから、原告の逸失利益は、二二二五万七七七七円となる。

(2,023,300×0.67×16.419

=22,257,777)

(二)  慰謝料

右後遺障害第六級の慰謝料としては、原告が女児であることをも考慮すると、一二〇〇万円とするのが相当である。

(三)  小計三四二五万七七七七円

(四)  右(三)の金員中、その四割に当たる一三七〇万三一一〇円が、前記乙山医師の過失と相当因果関係を有する損害額である。

34,257,777×0.4=13,703,110

(五)  弁護士費用

本件における弁護士費用は、一四〇万円とするのが相当である。

(六)  原告の被った損害額合計

一五一〇万三一一〇円

四  本訴状が被告に送達された日の翌日が平成六年一月一一日であることは、記録上明らかである。

第四  以上の次第であるから、原告の本訴請求は、金一五一〇万三一〇〇円及びこれに対する平成六年一月一一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないから失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六四条を、仮執行の宣言につき同法二五九条を各適用し、仮執行免脱宣言については、これを付すのは相当でないから、その申立て却下することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官石村太郎 裁判官阿多麻子 裁判官澤田正彦は、転補のため署名押印できない。 裁判長裁判官石村太郎)

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